慢性的な無気力感を排除するには現状把握が大事【私の場合】

Webライター

実は、両親が死んでから無気力感に襲われるようになって、年齢を重ねるほど頻度が増えて困ってます。これじゃいけないと自分を奮い立たせていろいろ努力するんだけど、しばらくすると今までやってきたことがすべて無意味に思えて、何もする気が起きなくなる。

私の両親はすでに他界していまして、母が亡くなって4年、父が亡くなって8年経ってます。年数が経つほど無気力感に襲われるスパンが短くなってます。ホント、マジ困るこれ。

ちょっといい加減嫌なので、なんとかしたくていろいろ掘り下げてみました。

無気力感の原因は両親との関係性、私の場合はこれに尽きる

両親と私の関係を端的に話すと、主人の言葉を借りれば私は虐待されていたみたいです。正直、当事者の私は実感がないのでピンとこないんですが。

確かに、毎日頭ごなしにヒステリックに怒鳴られていつ叩かれるのか怯えながら暮らしていて、まあ実際叩かれたり張り倒されたりしてました。私もすぐ泣いたり怒ったりするから「イライラする」とか「ヒステリー」とか「短気」とか言われてました、親から。

小さい頃から偏頭痛とか慢性疲労に悩まされるくらい家にいるのが嫌でした。でも、親は「お前を愛してるから怒る」とか言うもんだから、ああ、じゃあ親は愛情を持って接しているのに私はそれに答えられなくて、ホント、冷たくてダメ人間なんだなと思っていて。

両親が他界したことでそういったストレスはなくなったはずなのに、どうも精神状態がおかしい。

父が他界したときにかなり気が抜けた感じになって「私は父に反発するためだけにこれまで生きてきたのかもしれない。好きで演劇をずっとやってきたけど、それすら父への反抗心からなのか?自分のためじゃないの?私は今まで何をやってたの?」と思いました。

私の無気力感はここから始まりました。母が他界したらますますそれがひどくなって、あーもう、ホントうんざりするわ~って感じです。

無気力感に襲われない主人の見解

で、あまりにも立ち直れないものだから、さっき主人に「無気力感に襲われることある?」と聞いたら、「まったくない」の一言。

確かに、主人はプレッシャーとか他人からの圧力とかあんまり感じないタイプで、以前、職場のアンケートで「新人研修における今週の活動に対して気がついたことを書いてください」と質問されたときに「最近、肉を食べていないので力が出ない」と書いたら、その後上司から「ランチ、焼き肉行く?おごるよ?(苦笑)」と言われたツワモノです。

そんな主人でも、高校生のときに「自分はただの糞袋で、生きている意味なんかないんじゃないか」と思ったことはあるそうです。でも、そう思いながら周囲の人たちを観察していくうちに「いろんな人がいるけど、実際はそこまで世の中の役に立っている人ばかりじゃない。別にいいんだ、世の中そういう人も含めて回っているんだ、これでいいんだ」と思ったとか。

そもそも個人が、自分の、ひいては人類の存在意義を考えるのはおこがましいんじゃないか?存在しているからには何かしらの意義があるのかもしれない。人類が存続する意味が。でも、それって大局的な見方をしないと実際のところはわからない。人間個人ではなくて、地球の生命体すべての意志(無意識下の共通意識みたいなもの)を認識した上で考えていかないと、答えなんか出ない。

だから、自分ひとりがあれこれ考えても仕方ない。ひとりが考えたって変わるものでもないのであれば、自分が思うように、自分がこうした方が良いと思った行動を取ればいいんじゃないか。てか、取るしかないんじゃない?

人生、なるようにしかならない。努力しようがしまいが、なるようにしかならない。

最大限努力したら目標に近づくかもしれないけど、努力しても目標に近づけないかもしれない。それなら、自分の思うように生きたほうが良いんじゃないか。ケセラセラ。

なんてことを思ったそうです。

私の無気力の原因は観察者効果がなくなったから?

私は親から受けるストレスが大きすぎて、無意識のうちに反発することで自分を保っていました。でも、両親の他界によってそのバランスが崩れてしまった。今まで自分が真剣にやってきたことでさえ、無意味に思えた。だから無気力感に苛まれるようになったのだと思います。

物理学では観察者効果って言葉があります。観察者が観察することで、観察される側の現象が変わる。物事は観察する側とされる側の意識が無意識のうちに働いて動いている。両親と私の関係もまさしくそれ。両親は観察者で私はされる側。でも、観察者である両親が他界してしまったから、これまで私に起こっていた現象が止まってしまった。

そもそも、両親の過剰な観察や干渉がなければ、私だってあそこまで反発はしなかったわけで。そう考えると、私がやってきたことは必然だったわけで。

結論。だから、私がやってきたことは無駄じゃない。だって、そうしないと生きていけなかったのだから。今は観察者がいなくなったのにうまく認識できず、ちゃんと対応できていないだけだ、多分。

と、ここまで考えました。

無意識のうちに「たられば」で考えるのをやめればいい

私は未だに、あの家庭環境は不幸だったし悲しいと思っています。両親にはかなり辛く当たられて、本当に腹が立つけど、それ以上に悲しい気持ちでいっぱいです。しかも、残念なことに、両親を憎みきれない自分もいます。問題はあるにせよ、食べさせてもらって学校に行かせてもらって、家に住まわせてもらった恩もある。だから感謝はしている。

だからこそ、なんであんなふうに厳しいを通り越した接し方をされたのか、本当に未だに納得がいかない。もし、もっと穏やかな家庭だったら。もっとやさしい両親だったらと考えることも多いです。

でも、この世に「たられば」はないんだから、それは考えても仕方ないこと。私のやってきたことが無駄ではないのなら、納得のいかない部分にも少しずつ折り合いをつけていけるのかもしれない。そんなふうに思いました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました